生死海と弘誓のふね

 

生死の苦海ほとりなし

ひさしくしづめるわれらをば

弥陀弘誓のふねのみぞ

のせてかならずわたしける

 

このご和讃は、和語の本典である三帖和讃(教行証の三法門)の中で、宗祖親鸞聖人が浄土真宗の救いの真実性を讃え顕わされた高僧和讃の中の南天竺(南インド)の龍樹菩薩讃でございます。三帖和讃を図示すると

となります。親鸞聖人は「生死の苦海ほとりなし」と云われ、お釈迦様は「人生諸行無常にして一切皆苦なり」と言われています。このお言葉は苦を乗り越える為には、苦であることの認識が必要であることを教えて下さっているのです。苦は私の心の問題です。執著する心が私の中にあるかぎり苦は絶対に乗り越えることはできません。「木は木である」「山は山である」という単に物であるという断定的な見方や、「欲しいものは欲しい」という自己中心的な見方によって希望的観念が砕かれた時に「苦」は到来するのです。だから生きていること自体が「苦」になってしまうことがあります。この「苦」の解決法を体現されたのがお釈迦さまです。親鸞聖人は「苦」を持ち抱えたまま転換する方法が阿弥陀如来さまのお誓いの船にのせられているという感謝の心であると実践されたのであります。よって、阿弥陀如来の弘誓のふねに、私が私の力で乗り込むのではなく、「のせてかならずわたしける」と、この私がお浄土に往き生れさせて戴くのは、阿弥陀如来の願力のお独り用きのご用意があればこそであり、私の力は全く必用がないのであります。


「弥陀弘誓のふねにのせる」ということは、寂静無爲の楽(みやこ)たる極楽浄土へ往き生れさせて戴く正しき種である因(信心)を戴くということであり、お『正信偈』さまに「必ず信心を以て能入と為す」といわれてあります故、御信心一つで参らせて戴くということが知られます。この信心に就て、聖道門の自力にて信を理解する信心と、浄土門の他力にて賜わる信を仰ぐ信心との二通りの有る中で、浄土真宗の御信心は、他力仰信の信心であり、他力廻向たる賜わる信心なのです。よって、当流のご信心は私がする信心ではなく、私が賜わる・頂戴する信心なのです。阿弥陀如来さまに恭敬(くぎょう)させて戴くわけは、阿弥陀如来さまの本願こそが生死に流転しているわれわれを必ず彼の岸(お浄土)に渡らせる用きをして下さるからであります。

 

七高僧のお一人の善導大師の二河譬喩の西の岸(お浄土)から

 

汝一心正念にして直に来れ、我れ能く汝を守らん、衆て水火の二河に堕せんことを怖れざれ—。

 

との阿弥陀如来さまのお勅命。たとひ罪業は深重なりとも、その罪とがに目をかけるな、罪はこちらへ受取るぞよ、功徳はそちへ只やるぞよ、堕つる地獄は閉ぢてやる、参る浄土は開けてやる、開いて閉づる手ておぼえ 覚は、弥陀の手元にあるほどに、心配せずに、その侭コーイヨーと。呼んで下さるお勅命一つが千人力、いつ何 なんどき 時命終るとも、御待ち設(もう)けの寂静無為の御浄土へ、その侭ながらの御救たす けと、覚悟の出来たが無我仰信(ごうしん)の他力信心と申すものであります。

約二百年前の天保時代の充賢(じゅうけん)和上の「弘誓之船」という題の名言(みょうごん)(『説教落弁二百集』)に

 

一念帰命の当体に、難行雑修の艫綱(ともつな)を解き、迷ひの岸に繋(つな)がるヽ、自力疑心の錨(いかり)を捨て、若不生者の順風に、南無阿弥陀佛の帆(ほ)を上げて、生死の海に浮びつヽ櫓(ろ)も櫂(かい)も我とは取らじ法の船 唯舟人にまかせてぞ行く 櫓や櫂の役目は観音菩薩勢至菩薩、我等が方には計らひ入らす、妄念の風吹かば吹け、煩悩の波立たば立て、乗彼願力と乗込まされて、愈々称名の舟歌で、極楽浄土の湊
みなと入りとは、さてさて冥加に餘る仕合せと、仰ぎ上げては 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

 

と讃嘆説示されています。釈尊一代のご説法を図示すると

となります。西村法剣師の語録には七祖について

 

龍樹菩薩は易行易修なる大悲の願船の南無阿弥陀佛

天親菩薩は五念圓具の南無阿弥陀佛

曇鸞大師は往還廻向の南無阿弥陀佛

道綽和尚は末代通路の南無阿弥陀佛

善導大師は願行具足の南無阿弥陀佛

源信和尚は知目行足の南無阿弥陀佛

法然聖人は選択摂取の南無阿弥陀佛

親鸞聖人は生起本末の南無阿弥陀佛

蓮如上人は機法一体の南無阿弥陀佛

 

とあります。南無阿弥陀佛の真実性を仰ぐばかりであります。

合掌

 

(つがわ ふしょう 真宗学寮教授・正圓寺住職)