後生大事の覚悟
『宝章』昭和十五年五月号より転載(標題は新規設定)
印度南天竺香至(いんどなんてんじくこうし)国王の王子であった達磨大師は、その師、般若多羅(はんにゃたら)の遺訓(ゆいくん)を奉じて中国に来られた。ちょうど梁の武帝大通元年でありました。武帝は非常な仏教の保護者で、宮中にも仏教信者が多く、仏教はそのためなかなか盛大でありました。武帝は早速、達磨を宮中にご招待して、仏法の要義を尋ねられたので、達磨は禅の奥義を説かれました。けれども武帝はさっぱりそれを了解することができない。そこで達磨は揚子江を渡り、魏の国に行き、嵩山(すうざん)の少林寺というお寺にとどまって、そこで有名な、面壁(めんぺき)九年の行にかかられた。すなわち九ヶ年の間、壁に向かって端座し、観念を凝らされたのであります。
その時、神光(しんこう)という智者があって、中国の儒道の教えでは、安心立命(あんじんりつめい)ができないと、わざわざ達磨を訪ねて仏法の教えを求められたが、達磨は面壁端座(めんぺきたんざ)して何事も教えない。その年十二月九日の夜、大雪であったが神光はものとせず、その雪の中に立ったままでありました。明け方には雪が積もって膝を過ぐるという有様、達磨はこれを見てさすがに哀れに思い、初めて口を開かれた。「神光汝は久しく雪の中に立って何を求めんとするか」 神光は涙を流し「私はただ和尚が慈悲を垂れて甘露の法を説きたまい、数多(あまた)の衆生を済度せられんことを念願するのみ」と答えられた。しかるところ達磨は「諸仏無上の妙道は曠劫(こうごう)に精進して行じ難きを行じ、忍び難きを忍びて成就したまえり、小徳小智の輩(やから)が慢心を起こして冀(ねが)うべきにあらず」と叱責せられた。
神光はこの訓戒を聞くなり、秘かに鋭利な刀をもって自らの左の臂(ひじ)を断ち切って達磨の前に抛(なげう)たれた。達磨はその求道の峻烈な精神を見抜き、ついに禅宗の奥 義を授けられたのであります。すべて何事によらず、教えを軽んずるようでは、我がものになるものではない。世間の一通りの芸術でも、教えを軽んじては習得することはできない。いわんや仏法は甚深微妙(じんじんみみょう)な法門であります。いやしくも、仏教は三大阿僧祗劫(さんだいあそうぎこう)の難行苦行を積まれた如来様が、その悟入(ごにゅう)の境地をありのままに説かれた法門であるから、これを軽んじて、一朝の茶飯事と心得るようでは、到底わがものになるはずはありません。
浄土真宗の教えは、もとより根機(こんき)拙(つたな)い凡夫のために、無限の大慈悲から成就なされた御本願であるから、私たちに積雪の中で夜を明かせとも、臂(ひじ)を断ちて法を求めよとも仰せられたのではないが、「たとひ大千世界にみてらん火をも過ぎゆきて、仏の御名をきくひとは、ながく不退にかなふなり」この大法(だいほう)は三千世界に充満している。火炎(ほのお)の中をこぎ分けてでも求むべき法門であるとの御訓誡(ごくんかい)であります。
蓮如上人は「ただおほやうに聞くにあらず」とも、あるいは「如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、身にはしかしかともおぼえざるがゆゑに」とも誡めてあります。もとよりわが身や心を苦しめる用事はないのではあるが、この法門は万劫にも聞き難い難得難聞の法であると、法の尊さを味わい、大切に聴聞せよとのお意(こころ)であります。故に蓮如上人は「聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなり」とよく聖語(しょうご)を味わって見ることが肝要であります。
かく後生大事を覚悟して聴聞すれば御文章に「末代無智の在家止住(ざいけしじゅう)の男女(なんにょ)たらんともがらは」、「そもそも男子(なんし)も女人(にょにん)も罪のふかからんともがらは」、まぎれはない今日のお互いをお目あ当てに、呼んで下さる。この凡夫がどうなるか、「たとひ罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくひましますべし」。たのむとはよりかかるなり、よりすがるなり、法界第一の阿弥陀様が、うけあうぞよと呼んでくださる願力におすがりするより外はないのであります。
(真宗学寮初代学頭・本願寺派勧学)
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