愚者になりて
「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」
(『親鸞聖人御消息』註釈版 七七一頁)
親鸞聖人は、法然聖人は確かにこのように仰っていたとお手紙の中に記されています。宗祖が八十八歳の時ですから、生き別れとなり半世紀以上たった最晩年においても、師の言葉や光景が現在のものとして響いておられたのでしょう。
「浄土宗」とは、宗派のことではなく、阿弥陀仏の浄土の教えをそのものを指します。愚かな身であることを知らされて、阿弥陀仏のさとりの国土に生まれゆくのであるとの仰せです。
私たちは小さい頃から賢くなれ、愚かであってはならないと育てられます。歳を重ねても賢さを求めていきますし、少なくとも自分を愚かだと思って生きていませんので、「愚者」がどういうことかピンと来ません。もちろん一般的な愚かさと、仏法でいう愚かさは意味合いが変わってまいります。具体的にいろんなことが挙げられます。
私たちは沈んでいく夕陽を眺めるとき、「太陽が沈んでいった、太陽が動いている」と見えます。実際は地球の自転で現在地が太陽の光の影に入る現象で、小学生も知っていることですが、やはり自分の位置は止まっていて、太陽が移動しているようにしか見えません。長いあいだ天動説が信じられていたのも無理もないことですが、本当のことと真逆にものを感じているひとつかも知れません。
釈尊がお伝え下さいました諸行無常の理(ことわり) 、すべての現象は刹那刹那にうつり変わり、同じ状態が続かないことは、説明すれば子どもでも理解できる当たり前のことです。しかし仏法においては、本当に諸行無常の生き方をしているのかが問われるところなのでしょう。
三月の東日本の大震災では、多くの尊い命が失われ、壊滅的な被害を受けました。「不動産」とよぶほど頼りにしているものが激しく揺れ、津波でおもちゃのように流され、瞬く間に瓦礫の山と化していく様子は、到底受入れられるものではありません。このような大事(おおごと)があってようやく、「何が起こるか分からない」と心より思いますが、その中に自分の命が一瞬先は分からないことを、なかなか当てはめることができません。
あるいは、被災者の報道がなされる中、生きて行くための基本的なことが整っていることがどれほど有り難いことか、もっというと、縁あっていのちがこのように続いていることがどれほど喜ぶべきことかを感じることがあります。人の困難な状況からしか、本来喜ぶべきことが見えてこない、その思いすら、時が経つにつれ次第に薄らいで、やがては感謝すべきことに愚痴をこぼしていくようなものを果たして何と呼ぶのでしょうか。怒ってはいけない―誰もが知っていることです。仏教でも瞋恚(しんに)は、煩悩の最も根本的な三つとしてあげられるほど根の深いものです。
あるお家にお参りに行きますと、その家のご主人と年を取られたお母さんが、いつもお経のご縁に合われます。平素よりご主人は母親に対して優しく接してらっしいます。「お母さん、お寺さんが見えられましたよ。さあこっちへ」と手を引き、仏間に案内される様子を見るたびに、この方は何と親孝行で心の優しいお人柄なんだろう、自分もこのようにありたいと思っておりました。
ある時、お勤めを終えて三人でお話をしておりますと、突然そのお母さんが意味の通じないことを話し始められました。対応に少し困惑している私にご主人は、現在の母親の状態を訥々(とつとつ)とお話し下さいました。
「母親は実は認知症で、以前はお客さんの前ではそれが気づかれないくらい普通のやり取り ができていたのが、とうとう人前でも症状がでるようになりました。あれだけ気丈だったのに、真夜中に起きて、子供のように駄々をこねる母親に腹が立って腹が立って仕方がないんです。いつも激しい言葉で叱ってしまいます。引っ叩こうかと手を上げて何度思い止まったか知れません。このように母に接していたら、母が亡くなった時に、必ず後悔するとわかっていても、腹が立ってしょうがないんです。この心はいったい何なんでしょうか」
「愚者」とは、私たちが常日頃、人前で見せている立ち振る舞いの賢い、愚かをいっているのではありません。家族にも見せられない、ひょっとすると自分でも全く気付いていない心の奥底にある愚かさで、当てはまらない者がいないほどの人間の根本的な闇の部分です。それは、阿弥陀さまのみ光に照らし出されたありのままの相すがた です。しかも簡単に改まるものではないため、延々と迷いの世界に生まれ死にを繰り返してきていると知らされます。
このような人間の本性を見抜き知り抜いた上で、愚かさのまま、煩悩のままに間違いなくさとりの岸へ至らせるすべてを南無阿弥陀仏に込めて、現にはたらいていらっしゃいます。阿弥陀如来の救いの確かさ、お慈悲のあたたかさを聞きひらくことにより、これまで思ってもみなかった「はずかしい、もったいない、ありがとう」の心が恵まれます。そのこころと共にお念仏申し人生を歩んでいくものを「浄土宗のひと」、「愚者」とおっしゃるのです。
(たかまつ しゅうほう 真宗学寮理事長・広島仏教学院長・西向寺住職)
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