智慧をいただくということ

 

智慧の念仏うることは

法蔵願力のなせるなり

信心の智慧なかりせば

いかでか涅槃をさとらまし

       《正像末和讃》

 

「浄土真宗では、信心をいただき、念仏を申しながら仏恩報謝の生活を送ることが大切だと言われますが、そのことと私たちの生活とはどんな関わりがあるのですか」というお尋ねをいただくことがあります。私は、いつもその問いに対して「ものの見方や受け取り方が変わってきます」と答えています。

 

一般に、私たちは価値観の世界で生きていますので、たいていの場合は自己中心にものを見
たり聞いたりして判断をしています。即ち、どうしても関わっていかなければならないものに対して、自分にとって好ましいか好ましくないか・損か得か・善か悪か・美しいか醜いか・役に立つか立たないか等の判断を下しながら取捨選択をしています。それらの価値判断は、今まで育ってきた環境において、教えられたり学んだりしてきた経験体験が身に付いたものでありましょう。

 

お釈迦さまが「人生は苦なり」と説いてくださいました「生・老・病・死」についても、価値判断で見ると、すべての苦には値打ちを見出すことができないので、自分のこととして受け入れたくないし、深く考えたくもないのでありましょう。

 

よくお葬式等で「死んでしまったら何にもならない。死んだらつまらない」という会話を耳にしますが、そう言っている人も死んでいかなければならないのです。自分にとって都合の良いことばかりを追い求めながら生きていても、死に直面したら人は皆、つまらん人生になってしまうのでしょうか。

 

その自己中心の価値観が一変して、たとえ思うようにいかないものや苦なるものに直面しても、それぞれの事象から「意味を見出す力」を与えてくださるのが、阿弥陀如来さまより賜った「念仏の智慧・信心の智慧」なのです。

 

私事で恐縮ですが、私の母はお寺で週3回お茶やお花の教室を開いていて、数年に一度その成果を披露すべく、他の教室の人たちと協賛して市内のデパートの特設会場で「花展」を開催しています。ある年の花展開催の時、母は数ヶ月前から展示する作品の構想を考え、必要な材料を集めていました。

 

ある日、私がお参りから帰ってきますと、駐車場の隅にある枯れ木が目に入りました。当寺の駐車場は、これまでも強い風が吹くと、あちこちから木の枝やゴミの類の吹き溜まりとなっていますので、またどこからか飛んできた枯れ木だと思い、奥の見えないところに片づけて、坊守にそのことを話しました。

 

ところが坊守は、「あの枯れ木は、今度の花展の材料にするため、母がどこからか集めてきたものだから、置いてあった所に戻しといて」と言うものですから、あんな枯れ木が花展の材料になるはずがないと思いながら、元の場所に戻しました。

 

数日後に花展が始まり、茶道や華道にはあまり興味はありませんでしたが、坊守に誘われてデパートの展示会場に行きました。母の作品の前に行った時、まず私の目に飛び込んできたのは、花の材料にはならない思っていたあの「枯れ木」でした。花の世界に疎い私でも、その「枯れ木」が限られた狭い場所でありながら、周りの花々と調和を保ちながら、存在感を見せ生き生きと輝いていることが感じられました。

 

即ち、枯れ木は役に立たないと価値判断でしか見ることのできなかった私は、枯れ木としての「意味と存在」を見い出し、再び生かすことのできる「智慧」の世界を感じることができました。即ち、「智慧の眼」を持つ人は、捨てられたものでも、単なるものとしてではなく、それがなければならないものとして生かすことができるのではないでしょうか。

 

また、阿弥陀如来さまからいただいた智慧のはたらきは、「生・老・病・死」の苦悩を始めとして、どうしても避けることのできない身心を悩ますような事象についても、結果だけで判断するだけではなく、原因を明らかにしながら、「転悪成善」のご縁として受け止め、生かすことのできる力であります。阿弥陀如来さまのお救いのめあては、二百壱拾億といわれる諸仏方に「仏」に成る値打ちがないと見放された「十方衆生」の私を、諸々の庶類の為に不請の友となる群生を荷負してこれを重担とす《仏説無量寿経巻上》

 

として、智慧の眼で見抜かれ、「衆生が救われなければ仏には成らない」と誓いを建て、「必ず浄土に連れ帰って仏にするから、安心しなさい」と名号の声の仏となっていつでも私のところに来ていてくださいます。その名号を素直にいただいたのが「信心」であり、「ありがとうございます」と口から出てくださいますのが「念仏」であります。

 

即ち、思うようにいかない時は、自己の責任ではなく、思うようにいくのが「あたりまえ」と思っていた知識の世界から、「おかげさま」という意味の世界へと転じられていくのが智慧のはたらきであります。


(そう ゆいしん 広島仏教学院講師・実相寺住職)