優樓頻螺迦葉尊者

 

 釈尊が成道されて間もない頃、婆羅門(ばらもん)の優樓頻螺迦葉(うるびんらかしょう)は五百人の弟子をもち、阿羅漢(あらかん)として人々に敬われていた。彼の元に一人の沙門(しゃもん)が訪ねてきた。ほかならぬ釈尊その人であった。弟子や信者の人々は一目でその威光に打たれ、恭しく接待した。しかし師の迦葉だけは釈尊を見下していた。「この沙門は相当な能力の持ち主のようだが、私のように阿羅漢には到達してはいまい。」と。

 釈尊は火神を祀る草堂に逗留することを望まれたが、そこには凶暴な龍王が住んでいて誰も近寄らないという。迦葉の忠告を気にせず釈尊が堂にお泊まりになると、その夜、龍王が火を吐いて釈尊を襲ってきた。釈尊は火光三昧(かこうざんまい)に入り、全身を火焔で覆われた。草堂に巨大な火柱が上がって一晩中燃え続け、人々は恐怖に戦慄(おのの)いた。翌朝、迦葉は釈尊が何食わぬ顔でやって来られるのを見た。手にした鉢の中には龍王が大人(おとな)しく収まっていた。迦葉は釈尊の威神力に驚嘆するが、それでもそれを認めず「この沙門は私ほどの阿羅漢ではない。」と。

 その日以来、釈尊は迦葉に数々の神変(じんぺん)を現わされた。林の中で独居する釈尊に、四天王や帝釈天、大梵天など神々がこぞって礼拝に訪れ、林中が光明で包まれた。また、迦葉が食事の案内をすると、さっき後ろにいたはずの釈尊がすでに席に着かれていて、遥か須弥山の頂上にある樹の果実を手にして「道すがら取ってきたから食べますか」と。火が着きにくいときは五百の火を一斉に灯し、火が消えにくいときには瞬時に火を消して見せられた。このような神通力を見せつけらるたびに、迦葉は次第に釈尊に畏敬の念を持つようになるが、なお「彼は私ほどの阿羅漢ではない」と頑(かたく)なに思い込もうとしていた。

 そのような優樓頻螺迦葉の心を見透かすかのように、釈尊は一言おっしゃった。「あなたはご自分が阿羅漢だと思いますか」と。迦葉は真っ赤になって釈尊にひざまずき、弟子にして戴けるよう懇願した。  (『佛本行集経』より取意)

 

『大経』の声聞衆(しょうもんしゅ)に名を連ねる優樓頻螺迦葉尊者(ウルヴェーラカッサパ)は、その名の由来であるウルヴェーラ村に一大宗教的勢力を持つ迦葉(かしょう)三兄弟の長兄でした。次男は那提迦葉(なだいかしょう)(ナディーカッサパ)、三男は伽倻迦葉(がやかしょう)(ガヤーカッサパ)といい、三兄弟併せて千人の弟子を擁していたといわれます。いずれも釈尊の教化により仏弟子となった方々です。

このウルヴェーラの地は釈尊が出家後六年間修行された場所でもあり、成道(じょうどう)の地のブッダガヤーもその側にあります。成道後、釈尊はヴァーラーナシーの鹿野苑に赴いて五人の行者に初転法輪(しょてんぼうりん)(初めての説法)をなされ、当地で九十人余りの弟子を得ましたが、その後、単身このウルヴェーラに戻って迦葉三兄弟を教化されました。おそらく釈尊は、修行時代から地元の彼らの名声を聞き及んでいたに違いありません。だからこそ同じ求道者として道を誤ってほしくないとお考えになったのでしょう。そのとき三迦葉のみならず、彼らの弟子たち千人もこぞって釈尊に帰したため、仏教は一挙に出家者千人を超える大教団になりました。彼らの帰仏(きぶつ)は仏教教団にとって転機となった出来事といえます。

冒頭に引いた優樓頻螺迦葉尊者が教化される物語では、釈尊は神変(じんぺん)を現じ神通力を駆使して相手を感化させています。仏典でこのような言わば現実離れした神変譚(だん)が説かれるのは、それほど多くはありません。仏や聖者となった仏弟子は神通力が具なわると言われますが、釈尊は弟子たちにむやみに神通を用いることを戒(いまし)められていました。本当に必要なときにだけその神通を用いておられます。神通とは凡人にはない超人的な力のことで、仏教では六通(天眼てんげん・天耳てんに・神足じんそく・宿命しゅくみょう・他心たしん・漏尽ろじん)を説きますが、最後の漏尽通(煩悩を断ずる力を神通にみたてたもの)だけが仏教的なもので、残りの五通は他のインドの宗教でも語られる世俗的な力です。使い方を誤れば道を外してしまいます。

当時の迦葉三兄弟の教団の実態は明確ではありませんが、火神(アグニ)に仕(つか)え火を祀る儀式を行なっていたようです。今のヒンドゥ教でも火を用いる儀式は重要な祭祀のひとつですので、当時も三迦葉の行なう火の儀礼は一般的だったのでしょう。おそらく彼らはある程度の神通力の持ち主であったに違いありません。儀式でそれを駆使して奇跡的な神変を見せて、人心を惹きつけていたのです。そんな実態を見抜いたからこそ、釈尊はさらに強力な神通を多用して迦葉たちを圧倒して見せたのです。そのような奇跡を起こす神変だけに頼って得られる信頼は、さらに強大な力の前にはもろくも崩れ去ります。そんなことはたわいもないことで、真実の道でも何でもない。暗に釈尊は迦葉たちにそう教えようとされていたのです。

この因縁話で印象的なのは、優樓頻螺迦葉尊者が釈尊を「私ほどの阿羅漢ではない」と頑なに受け入れようとしなかったことです。おそらく出会った瞬間すでに釈尊の偉大さを実感したようですし、その並外れた力に歓喜にも似た畏敬の念を抱き続けていたにもかかわらず、なかなか素直に認められなかった。多くの弟子を抱える立場上、威厳を失うことを恐れたのでしょう。「阿羅漢(アルハト)」とは、仏の異名の一つですが、後には仏と区別して仏弟子(声聞)の到達する最高の悟りの位を示す言葉になりました。「応供(おうぐ)」と意訳されるように、元々の意味は「供養されるべき人」「尊敬すべき人」です。だから、迦葉尊者が「釈尊は私ほどの阿羅漢ではない」と拘(こだ)ったことは「私の方が皆に尊敬されている」と言っているに等しいのです。そこには世間的な地位や名誉に固執する頑固で愚かな心が潜んでいます。自分でもすでに釈尊を尊敬していることが判っていながら、それを素直に喜べない憍慢(きょうまん)と嫉妬の心です。最後に釈尊の語られたとどめの一言は「あなたは本当に尊敬されてますか」「尊敬されることがそんなに大事ですか」というように迦葉尊者には響いたことでしょう。おのれの心をすべてを見透かされた迦葉尊者の自尊心は跡形もなく打ち消され、仏の前にひれ伏すしかなかったのです。

仏の智慧の眼(まなこ)はそのように、人の心を的確に見抜き、たとえどんなに頑固な心であっても打ち砕いてしまいます。しかもその眼は決して敵対することなく、大きな
懐(ふところ)ですべてを包み込んでしまう慈悲のまなざしなのです。

その後、優樓頻螺迦葉尊者は彼をよく知る大衆の前で「釈尊はわが師、私は釈尊の弟子」と宣言します。そこには何の衒(てら)いもなく、むしろ喜びに満ちあふれた姿がありました。尊者はほどなく阿羅漢の悟りを開き、智慧を兼ね具えた真の神通を手にしたのです。

(広島仏教学院講師・眞光寺住職)