摩訶倶絺羅尊者
あるとき摩訶倶絺羅(まかくちら)尊者は、舎利弗(しゃりほつ)尊者に尋ねた。
「世尊のもとで修行にいそしむのは、現世に果報を招く悪業を未来世の果報にしたり、来世に果報を招く善業を現世の果報にするためですか。」
「違います。」
「では苦を招く業を楽にしたり、楽を招く業を苦にしたりするためですか。」
「それも違います。」
「では悪業の果報を受けないよう、また善業の果報を受けるようにするためですか。」
「違います。」
「では何のために修行にいそしむのですか」
「それは、まだ知らないことを知り、見たことないことを見、獲得していないことを獲得し、悟っていないことを悟り、達観していないことを達観するためです。それは何かというと、苦を知り、苦の原因を知り、苦をなくすことを知り、苦をなくす道を知ることです。そのために世尊のもとで修行にいそしむのです。」
(『増支部経典』九法第十三経より取意)
『阿弥陀経』の比丘衆(びくしゅ)に名を連ねる摩訶倶絺羅(まかくちら)(マハーコッティカ)尊者は、舎利弗尊者の伯父にあたるといわれます。マガダ国ナーラダ村(現在のナーランダー)の婆羅門(ばらもん)の家に生まれ、国王に仕える村の名士であった父母や妹の舎利(シャーリー)とともに、裕福に暮していました。あるとき底沙(ティシャ)という婆羅門がやって来て、父に論戦を挑み打ち負かしてしまいます。敗れた父は遁走(とんそう)し、勝者の底沙は娘の舎利を妻にして家に居座ります。舎利はやがて男の子を産みます。その子が後の舎利弗尊者です。何とか底沙と対決して父の仇を討ちたい倶絺羅青年は、まだ未熟な自分の学力を思い、出家して勉学修行の旅に出ます。そして学を究めるまでは爪を切らないと誓い、長く伸びた爪から「長爪梵志(ちょうそうぼんし)」と呼ばれるようになりました。十数年後、長爪梵志は満を持して故郷に帰りました。しかし当の底沙も妹も母もすでに他界し、甥の舎利弗は出家して仏弟子になったと聞きます。梵志は気を取り直し、舎利弗の師である釈尊と対論しにいきました。しかし自信満々に論戦を挑んだのに、あっけなく敗れて仏教に入信します。
長爪梵志と呼ばれた求道時代の摩訶倶絺羅尊者は、順世外道(じゅんせげどう)という宗教一派の思想を学んだといわれます。この学派の全貌は明らかではありませんが、一種の唯物論を主張して、業や倫理道徳、婆羅門の儀礼を否定し、快楽主義を唱えたと伝えられます。また詭弁を弄して、自説に意固地になる傾向があったようです。そのような思想を携えて、長爪梵志は意気盛んに釈尊に論戦を挑んだのですが、そのとき梵志は開口一番、「私はすべてを認めないと主張する」と嘯(うそぶ)きました。しかし釈尊は即座に「では『すべてを認めない』というその見解も認めないのですか」と切り返されます。しどろもどろになる梵志を、釈尊は丁寧に諭(さと)してゆかれます。すべてを認めないという主張もあり、すべてを認めるという主張もあり、部分的に認めるという主張もある。いずれにしても、世の中には様々な主張があることを無視して自説に固執するなら、必ず対立して争論に陥り、余計な苦悩を増すばかりでまったく無益である。真の賢者はそのことをよく理解し、いかなる主義主張にも執着することなく、自らの見解を捨て去るものだ、と。そうして釈尊は梵志に身心の無常・無我なることを示し、それらへの執着を離れ、捨て去るべきことをお説きになりました。それを聞いた梵志すなわち摩訶倶絺羅尊者は法眼を生じ、側にいた舎利弗尊者も釈尊の巧みな導きに感嘆したといいます。
仏典で摩訶倶絺羅尊者は、舎利弗尊者と法談する姿がよく伝えられます。伯父・甥の関係を越えて、屈託なく舎利弗尊者に何度も教えを受けます。そこには真摯に道を求める求道者の姿があります。舎利弗尊者もその心に応え、ときには自ら質問を設定して摩訶倶絺羅尊者を導きました。智慧第一と謳(うた)われた舎利弗尊者は生来の天才肌といえますが、それに対して摩訶倶絺羅尊者はむしろコツコツ型の努力家タイプだったようです。
冒頭の引用もそのような法義問答の一節です。そもそも修行の目的は何かという、出家者にとって基本的な問題が論じられています。しかし二人の姿勢には、かなり違いが見られます。
上に見たように、そもそも摩訶倶絺羅尊者が出家した動機は、論戦に敗れた父の無念をはらすためであって、世の無常を感じたり、出離生死(しゅつりしょうじ)の道を求めていた訳ではありませんでした。相手より優れた学識と論争術を身に付ける、それだけが長爪梵志が骨身を削って求めたものでした。おそらく婆羅門の家に生まれた血がなさしめたともいえます。だから、初めて釈尊の教えに触れて、眼から鱗が落ちる思いで弟子入りした後も、何をどう求めてよいか、中々定まらなかったのだと思います。この舎利弗尊者との問答は、そのような摩訶倶絺羅尊者の心境をよく表わしています。
ここで尊者は、果報を招く業の力を制御することを、修行の目的と見ていたようです。長爪梵志が学んだ順世外道では、業は全く否定されたようですが、仏教では悪業により苦の果報が、善業により楽の果報がもたらされると説き、悪業を止めて善業を積むことが勧められます。また、声聞(しょうもん)の悟りを得た阿羅漢(あらかん)は、業の果報を制御できると教えられます。摩訶倶絺羅尊者はそれらの教説を率直に聞き止めたのでありましょう。
しかし、仏教の本来の目的は、善業を積んで楽の果報を受けることではありません。苦であろうが楽であろうが、業が招く果報は迷いの世界の内にあります。釈尊が行き着かれたのは、その業の根本にあって人間を迷いに縛りつける、無明煩悩(むみょうぼんのう)の存在です。無明とは無知のことです。ものの真実の姿を知ることができない心のはたらきです。無明によって、私たちは自己中心的にものに執(とらわれ)ていき、業もそこから起こります。無明がある限り、生死(しょうじ)の苦悩から逃れられることはできません。この無明が破られ、真実を明らかに知る智慧が生ずることを「悟り」といいます。悟りを得た者はあらゆる苦悩を超克し、迷いに繋(つな)ぐ業がまったく尽きていきます。
仏教が目指すのは、この悟りの智慧を身に付け無明を打ち破ることであり、舎利弗尊者が「知らないことを知る」と言われたことにほかなりません。さらに、そこで言われる、苦と苦の原因と苦の滅と苦の滅への道を知ること、これは苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)の四聖諦(ししょうたい)で、仏弟子の実践の中心に据えられた、明らかな四つの真実(諦(たい))をいいます。智慧によって見るべき真実です。
摩訶倶絺羅尊者がいう業の制御は、悟りの智慧を身に付けるための準備段階、あるいは付随的な結果と見るべきもので、最終的な仏道の目的ではありません。しかし、長い間世俗的な学究に執われをもっていた摩訶倶絺羅尊者にとって、頑固にこびりついた自分なりの常識を拭い去ることは、非常な困難を伴いました。釈尊や舎利弗尊者に何度も何度も導きを受けることが必要でした。その甲斐あって、やがては弟子の中でも得解第一(とくげ)(教説理解と弁舌の第一人者)と称讃されるまでになりました。思えば、最初に主義主張への執われを捨てよと教えられた摩訶倶絺羅尊者ですが、とことんまで教説にこだわる頑固な姿勢を最後まで貫(つらぬ)いたともいえます。
舎利弗尊者のような天才的なひらめきは望むべくもない私などは、むしろ摩訶倶絺羅尊者の、実直で頑固で不器用な生き方に共感を覚えます。私たちは、何かにこだわり執われて、中々そこから離れることができません。だからこそ、繰り返し教えに尋ねていかねばならないのでしょうし、それでもやがて道が開けるのは、私たち自身の能力の問題ではなく、教説の巧みな導きと、確かな真実の誘いざな いがあればこそです。摩訶倶絺羅尊者の生き方から教えられることです。
(広島仏教学院講師・眞光寺住職)
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