難陀尊者

 

出家して間もない仏弟子難陀(なんだ)は、家に残してきた愛しい妻が忘れられず、彼女のことばかり考えてまったく修行に打ち込むことができずにいた。釈尊や同門の弟子たちの再三にわたる叱咤や激励も通じず、隙をみては脱け出して家に帰ろうとする始末だった。

釈尊はそんな難陀の手を引いて山に上り、猿の群れを見せて
仰った。「この猿たちはあなたの妻と比べてどちらが美しいですか?」難陀は半ばあきれて黙っていた。釈尊はまた難陀の手を引いて忉利天(とうりてん)という天の世界まで上り、五百人の天女たちが戯れるさまを見せた。難陀の目は麗(うるわ)しい天女たちに釘付けになった。「この天女たちはあなたの妻と比べてどちらが美しいですか?」難陀は即座に答えた。「妻はもちろん猿とは比べものにならないほど美しいですが、この天女たちの美しさはその妻の数万倍でしょう。」見とれている難陀に釈尊は仰った。「彼女たちと親しくなるには、修行に精進することです。そうすればこの天に生まれることができます。」
 それ以来、難陀は忉利天に生まれて天女たちと戯れたいがために修行に精を出した。仲間の仏弟子たちは、そんな不純な動機で修行する難陀を笑いものにしたが、難陀はまったく気にする素振りもなく修行に打ち込んだ。

難陀の修行も完成に近づいた頃、釈尊はまた彼の手を引いて今度は地獄へと連れて行った。そこには釜ゆで用の釜が準備されていた。地獄の獄卒(ごくそつ)がいう。「難陀さん、この釜はあんたのために用意した釜だ。熱湯を沸かせて待ってるぜ。」「しかし私は忉利天に生まれるはずだ。」「知っている。あんたは忉利天で遊びほうけた後、地獄に堕ちることになってるんだよ。」恐ろしくなった難陀は愚かな身のほどを恥じ入り、真剣に修行に励んでついに悟りを開いたという。 (『佛本行集経』より取意)

釈尊の直弟子の一人、難陀(ナンダ)尊者は釈尊の異母弟でした。釈尊の実母マーヤー妃(摩耶夫人)は釈尊を産んで七日目に亡くなり、継母のマハーパジャーパティの手で育てられましたが、難陀尊者はその継母の子です。悟りを開かれた釈尊が初めて故郷カピラヴァットゥに帰郷されたとき、ちょうど難陀の結婚式が行なわれていました。しかし釈尊はしきりに難陀に出家を勧め、しぶる難陀を半ば強引に精舎に連れ帰り出家させました。尊者は出家はしたものの強い意志があった訳ではなく、むしろ釈尊への敬意の念から断り切れず成りゆきで出家してしまったようです。

 

そんな難陀尊者ですので、積極的に修行しようという気はさらさらありませんでした。さすがに兄弟で、その衣を着た姿は釈尊と見間違うほどそっくりだったと言われます。しかし「麗しき難陀」(スンダラナンダ)と称されたほどイケメンで名うてのプレイボーイだった彼は、衣を色鮮やかに加工して着こなし、目の辺りに化粧して楽しんだそうです。さすがにそれは禁止されてしまいましたが、見た目はそっくりでも志し は釈尊とはまったく違う兄弟でした。

 

しかし結婚初日に引き離された妻への難陀の想いは募る一方でした。別れ間際、二度と会えない予感が新妻にはあったのか、彼女は「あなた!行かないで!戻って来て!」と叫んで難陀を引き止めたそうです。すぐに戻るつもりだった尊者は、そのときには気にもとめていなかったのですが、後になって妻の最後の声が尊者の耳を離れず心を嘖(さいな)めます。地面に妻の似顔絵を描いて、それを眺めては溜め息をつき、家に帰って妻に再会することばかりを夢みて恋い焦がれ、修行するどころの心理状態ではありませんでした。

 

難陀尊者ほど愛欲が強かった修行者はいなかったでしょう。そんな難陀尊者が釈尊に導かれた様子を描いたのが、上に引いた経文のエピソードです。その中で釈尊は、彼の強い愛欲を頭ごなしに否定するのではなく、むしろそれを利用し、その愚かさ、頼りなさを自ら思い知らされるように、巧みに導いておられます。「天の美女に出会えるよう修行に励みなさい」と、美女を餌に修行に誘った訳です。これは通常ではあり得ない説法です。仏道の目的を逸脱しているからです。しかし難陀の頑固な愛着を取り除くには、生半可な方法では難しかったのです。

経文に登場する忉利天(とうりてん)(三十三天ともいう)は、天の中でも人間と同じ欲界(よっかい)に属する天で、思いが叶う夢のような楽園として描かれます。逆に地獄は苦しむことしかできない安らぎのない世界です。欲界天と地獄は、言ってみれば私たちが求めたり忌み嫌う象徴的な両極端の世界です。しかし楽園のような天の世界といえども生死輪廻の六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)の中にあります。とてつもなく長寿ですがやがて寿命が尽きるときがきます。そのときには心身が急速に衰え、激しい苦痛とともに死を迎えるそうです。さらにその先には地獄が待っているかもしれない、決してバラ色ではない、苦しみを内包する楽園なのです。

難陀尊者が天に愛着を起こし地獄の恐怖におののくさまは滑稽ですが、実は、尊者が地獄を自覚して仏道に本気になったことは意味のあることです。私たちがこの世で得られる幸せには必ず終わりがあります。そして幸せの終わりは悲しみ・苦悩を伴います。楽は壊れれば苦になる。天に寿命があることはそれを象徴しています。だから仏教ではこの世は本質的に苦しみの世界と見ます。愛欲にほだされ幸せを求め、あるいは幸せの渦中にある人は、そのことに気づかず、だから道を求める心も生じないのです。地獄行きを自覚することは、自分が苦しみの世界にあることに気づくことです。釈尊は、後生(ごしょう)を本気で心配している人は導きやすいと言われました。地獄を自覚することは、真の仏道に入る第一歩なのです。難陀尊者の伝記を拝読すると、結婚式当日に出家したくもないのに無理やり出家させられた可哀想な人のような第一印象を受けます。確かに同情すべき点もありますが、俗世的な夢が寄る辺のないことをやがては自分自身気づくであろうと、釈尊は見越して強引な行動に出られたように思われます。現に、絶対と思われた難陀尊者の妻への愛情は、天の絶世の美女を目にしただけでもろくも崩れ去り、さらに美女たちに向けられた一途な愛も、地獄の恐怖を前にして微塵に砕け散りました。結局その愛情の正体とは、わが身可愛さのエゴでしかなかったのです。

 

そのような愛欲に翻弄される難陀尊者を導いていかれた釈尊の智慧の眼は、透徹した厳しさの中に慈しみが溢れています。尊者の頑固な愛欲は、一朝一夕に取り除くことは困難でした。溶けにくい冬の氷がやがて春になって溶け出すのを待つように、方便を凝らして機会を与え続け、機が熟して尊者が自覚できるようになる時を、ひたすら待ち続けておられたのです。どんな者でも決して見捨てることのない仏の慈悲がそこにはあります。

釈尊は難陀尊者を弟子の中でも「根調伏第一(こんじょうぶくだいいち)」(感覚器官を制御する力に勝れた者)と讃えておられます。人一倍愛欲の強かった難陀尊者ですから、それを制御しえたことが称讃されたのでしょう。そのときの難陀尊者は、仲間たちから女を求めて修行していると揶揄(やゆ)され続け、悟りを開いたことが認められていない状況にありました。それを見かねた釈尊が気遣って尊者を讃えられたのです。冷静なそれでいて温かい仏の慈悲の心です。

 

(あおはら のりさと 広島仏教学院講師・眞光寺住職)