如来の恩徳
現在、全国の地方紙に五木寛之さんの小説『親鸞』が連載されております。その中でしばしば、当時の人々が唄を歌う場面が描かれています。平安時代から鎌倉時代にかけて親しまれた今様(いまよう)といわれる歌です。七・五の句が四セット一フレーズで、現在歌われている童謡や歌謡曲もこの流れを汲み、親鸞聖人の和讃もまたそうでした。普通、歌の言葉は、印象深い事柄や、人間の情が綴られることが常ですが、親鸞聖人の和讃の多くは、お聖教(しょうぎょう)の仏語をほとんどそのままに和語に調え讃嘆(さんだん)されたり、本願のみ法(のり)を伝えられた方々の徳を讃えられています。帖外(じょうがい)のものを含めると五百首以上にわたる膨大な和讃を遺されていますが、その中でも真宗に縁あるかたで、聞いたことがない人はいないぐらい、今日も歌としてなじみがあるのは「恩徳讃」でしょう。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
阿弥陀如来のご恩、その教えを明らかにされた方がたのご恩がどれほど深いものか、兄弟子の聖覚法印(せいかくほういん)の文を通じて、讃じられたものです。なぜこの和讃を常日頃口にかけて歌えるように大事に伝えてこられたのでしょうか。
ある大学の先生が学生を対象に「思いやり」に関するアンケート調査をしました。「あなたは思いやりがありますか?」と。この問いに、多少を問わず「ある」と答えた学生は全体の九十八パーセントにのぼったといいます。と同時に「人から思いやりを受けていますか?」の問いには、同じ数だけ受けていないと答えたそうです。本来ならば、これだけ思いやりがあると自負している人がいれば、同じ数だけ人からの思いやりを感じるはずです。自分がしたよいことは自分でもよくわかりますが、他から思われ、なされていることを受け取りにくいという、私たちの心のすがたがよくあらわれています。
「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善
ぜんごん 根をたのむひとなり。」
(『一念多念証文』註釈版 六八八頁)
親鸞聖人は自分の側の事をたよりにすることを自力といい、この私が中心となり、はからっていく心がいかに離れがたいものであるかをあらわされています。本願の教えをいただくという事は、方向性が真反対に転換されます。仏願の生起本末が聞くことにより、さとりを目指す上で、私の力が全くあてたよりとならないことが知らされてくるのです。
「法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取った
のである」(『浄土三部経』現代語版聖典 二三頁)
今、「五劫思惟」と出てくる「劫(こう)」という時間の単位を仏典では譬えであらわされます。諸説ありますが、四十里立方の大岩を、百年に一度柔らかい布で撫(な)で、その岩が磨耗してなくなるより長い時間が一劫といわれます。「劫」がどれぐらいの時間になるか、石と布を擦(す)り、摩擦ですり減った重さを精密な秤で計測した科学者がいたそうです。それにより算出した一劫は、十億年相当だったというのを聞いたことがあります。
五劫といわれても十億年といわれても、非常に長い時間であることぐらいはわかりますが、具体的なイメージはなかなかできません。そこで時間を長さにおきかえて味わってみます。仮に一劫を先の十億年とし、人間の一生、百年を一㎝とすると、法蔵菩薩が思惟された五劫は五百㎞となります。人間の最大限の寿命である百年中、自らと他のさとりのために思惟している時間はどのくらいあるでしょうか?立派に仏道を歩んでいる極めて希な人であっても一㎝の何十分の一の長さになるでしょうし、まして迷いの身であることすら意識しない生き方をしているものの思惟の時間はゼロです。
さらに法蔵菩薩は、五劫のあいだ思惟された内容を実現するために、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行を積まれ阿弥陀仏になられたと、釈尊は説かれます。兆・載どちらも数詞です。漢字圏の位 くらいど 取りは時代と国で変わり、現在も使われている中数の万進法ですと、兆載は十の五十六乗倍、最も小さい下数で十の二十乗倍になります。人間の寿命百年を一㎝とすると、兆載永劫は少なく見積もっても五百兆光年、つまり光の速度でも五百兆年かかる距離になります。それほどの長い間行じられた様子を、宗祖は次のようにいわれます。
「阿弥陀仏は苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことはなく、まことの心でなかったことがない。」(『教行信証』現代語版聖典一九六頁)
量的にも質的にも如来の側で費やされたことと、私が持ちうることは、比べるべくもなく、圧倒的にスケールが違い、まったく太
たちう
刀打ちできるものではありません。にもかかわらず、その救いの法に対して、大丈夫だろうかとか、私にも足せるものがあるのではないかと思いはからうことが、どれほどおごったこころであるかは明らかです。とても返しきれない如来の広大なご恩の中に、わがいのちがあることを感ずるとき、絶対的な安心と同時に、このままではいけないという心もめぐまれてくるのでしょう。そこには、ともに念仏の道を歩んでいこうと他へ伝えていく、知恩報徳の利益があることを親鸞聖人は私たちにお伝えくださいました。
(真宗学寮理事長・広島仏教学院長・西向寺住職)
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